坂本龍馬

伝記(総合1)

坂本龍馬は、5人兄姉の末っ子として生まれた。
龍馬と他の兄姉は、三女の乙女を除いて、みな10才以上の年令差があった。
龍馬が生まれた時、

長兄(権平)・・・21才
長女(千鶴)・・・18才
次女 (栄)・・・15才
三女 (乙女)・・・3才

であった。

子供の頃の坂本龍馬は、気が弱く臆病で、11才になるまで、おねしょをしていたため、
近所の子供たちから「よばいったれ(おねしょをする)」「泣き虫」「鼻たれ」と、
からかわれていたという。

12才になった坂本龍馬は、楠山塾(なんざんじゅく)へ通い始めたが、間もなく退塾してしまう。
「退塾の理由」としては、「出来が悪く、落ちこぼれであったため」という説や、
「口論から、上士の子供が、刀を持ち出す騒ぎとなったため、
龍馬の父親によって辞めさせられた」などの説がある。

しかし14才になった龍馬は、剣術道場へ通い始め、
この道場で龍馬は、朝から晩まで、熱心に稽古に励んだという。

坂本龍馬の正確な身長は、分かっていないが、大男だったという。
「写真」と「当時、着用していた紋付のサイズ」を元に、研究者が計算したところ、
坂本龍馬の身長は「180cm」であった。
ほかの研究では「174cm」や「169cm」という説もある。

いずれにしても当時の平均的な身長は、150cm台であったため、
”坂本龍馬は、大男であった”と言えるだろう。
また龍馬の姉・乙女も、約174cmと大柄であった。

坂本龍馬という男は、その身長といい、その業績といい、
「幕末の巨人」と呼ばれるに、ふさわしい男だったのかもしれない。

高知県立坂本龍馬記念館
(ttp://www.ryoma-kinenkan.jp/study/)
【エピソード1】
坂本龍馬は、簡単に言えば「江戸幕府を倒すきっかけを作った人」と言える。
龍馬は、幕府を倒すために、幕府と対抗できる大きな力を持った
「薩摩藩」と「長州藩」の同盟を成功させた。
薩摩藩と長州藩は”武力による幕府の打倒”を考えるようになったが、
龍馬は”日本国内での戦争”に反対していたため、平和的な倒幕である「大政奉還」を、土佐藩に提案した。
この案は、土佐藩から徳川慶喜に進言され、徳川慶喜もこれを受け入れて、形式上は幕府が消滅した。

【エピソード2】
坂本龍馬は勝海舟の使者として、西郷隆盛と会ったが、
龍馬は西郷隆盛について、勝海舟に、こう述べた。

「西郷という奴は、わからぬ奴だ。
もし馬鹿なら大きな馬鹿で、もし利口なら大きな利口だろう。」

それを聞いた勝海舟は
「坂本も、なかなか鑑識(かんしき)のあるヤツだよ」と書いた。

間違いだらけだった?「龍馬伝説」

【龍馬伝説のウソ[その1]】
当時、土佐藩士の間では「長刀」を差すことが、流行っていたが、坂本龍馬は「短い刀」を身につけていた。
そのことを、龍馬の旧友である「檜垣清治(ひがき せいじ)」が、指摘したところ、
龍馬は「実戦では、短い刀のほうが良い」と答えた。
檜垣は、この龍馬の説明に納得し、彼もまた「短い刀」を差すようになった。

その後、2人が再会した時、檜垣は龍馬に「短い刀」を見せた。
ところが龍馬は、今度は「拳銃」を取り出し、「銃の前には、刀なんて役に立たない」と言った。
再び檜垣は納得し、彼もまた「拳銃」を買った。

その後、また2人が再会した時、檜垣は龍馬に「拳銃」を見せた。
ところが龍馬は、今度は「万国公法(国際法)の洋書」を取り出し、
「これからは、世界を知らなければならない」と言った。
今度ばかりは檜垣も、ついていけなかったという――

この有名エピソードは、大正時代に書かれた「坂本竜馬(著者:千頭清臣)」によって生み出された
「作り話」である。
実際には、このエピソードに登場する「檜垣清治」は当時、殺人で服役中であり、
維新後に赦免されるまで、龍馬と会うことは出来なかった。

【龍馬伝説のウソ[その2]】
坂本龍馬は、開国論者の「勝海舟」を殺すため、勝海舟の下を訪れたが、
逆に勝海舟から「世界情勢」と「海軍の必要性」を説かれて、
大いに感服した龍馬は、その場で勝海舟の弟子になったという――

この有名エピソードは、勝海舟の「誇張」もしくは「記憶違い」である可能性が高く、
龍馬には、勝海舟への殺意は無かったようである。

実際には龍馬は、松平春嶽から正式な紹介状を受けて、勝海舟を訪問しており、
また勝海舟の日記に記載されている12月29日の訪問時には、
すでに龍馬は、勝海舟の弟子であった可能性がある。

高知県立坂本龍馬記念館
(ttp://www.ryoma-kinenkan.jp/study/life/1.php)
幼少期の坂本龍馬は、「泣き虫」で「夜尿症」、
10才になっても1人で袴もはけないほど「不器用」、
私塾に行っても成績が悪い「落ちこぼれ」だったと言われている。

しかし龍馬が、幼い頃「愚童」であったとする記録は、全く残っていない。
にもかかわらず、なぜこうした「龍馬・愚童伝説」が定着していったのだろうか。

龍馬は、姉・乙女に宛てた手紙の中で、
「どふど昔の鼻たれと御笑い遣わされまじく候」と書いているが、
これが作家・歴史家の目にとまり、「龍馬の鼻たれ」といった「龍馬・愚童説」の根本の文献となった。

そして「龍馬・愚童説」を採用した「維新土佐勤王史(坂崎紫瀾編)」
「坂本龍馬(著者:千頭清臣)」などの出版物によって、
次第に「龍馬・愚童説」が定着していった。

そもそも「泣き虫」「ハナタレ」「夜尿症」などといった事は、
当時の、ほとんどの子供たちに共通していた事であり、取り立てて言うほどの事では無かった。

龍馬の黒幕(TBS)
(ttp://www.tbs.co.jp/program/hbc_ryoma.html)
龍馬の人生には、「謎めいた空白の半年間」がある。
謎めいた空白の半年間――
それは「1864年10月~1865年4月」である。
それ以後の龍馬の活躍ぶりから、逆に推理していくと、
その半年の間に、龍馬は「膨大な力」を蓄えたのだろう。

「謎めいた空白の半年間」が終わった直後の1865年5月、
龍馬は「亀山社中(日本初の商社)」を設立した。
この生まれたばかりの商社が、わずか3ヶ月後の8月には、大量の武器を、諸外国から輸入していた。

だが、どうやって龍馬は、そんな離れ業を、やってのけたのだろうか?
「価格の交渉」「在庫確認」「輸送」「通関」「納品」「決済」に至るまで、
細部にわたる商談を、電話もメールもない時代に、
一体どうやって、そんな短期間で、まとめ上げたのか?

「莫大な資金」「人脈」「情報」を持った何者かが、龍馬のバックにいたのではないか?
龍馬の黒幕――それはイギリス人の武器商人「トーマス・グラバー」であった。

1864年、龍馬は長崎を訪れた際、小曽根英四郎(豪商)の紹介で、「トーマス・グラバー」と会った。
その時、龍馬28才。
グラバーは25才で、滞日4年目、志士たちとも深い交流があった。

その後グラバーから物心両面の後押しを受けた龍馬は、めきめきと頭角を現していく。

グラバー邸は、勤王の志士たちのアジトであった。
坂本竜馬、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊助(伊藤博文)、高杉晋作、
小松帯刀、五代才助(五代友厚)、岩崎彌太郎などが、
グラバー邸に出入りしていたことが判明している。
グラバーの日記によると、竜馬は亀山社中の連中と一緒に、たびたびグラバーを訪れていた。

1865年末、薩摩と長州を結びつけるために、
竜馬などが「銃」「弾薬」を調達し、薩摩から融通を受けた船で、長州へ運んだ時、
グラバーが便宜を図っている。

「薩長同盟」のための第1回会議が開かれると、
グラバーは「ミニエール銃とゲベール銃7300丁」「軍艦ユニオン号」を、
長州に対して調達している。
グラバーは「薩長同盟」を、ウラで画策していた。

坂本龍馬は「トーマス・グラバー」の影響を、強く受けていた。
「薩長同盟」「亀山社中」「海援隊」「船中八策」は、
龍馬個人の完全な独創ではない、という指摘がある。

「グラバー商会」は、アヘン戦争を推進したイギリスの「ジャーディン・マセソン商会」の直系であり、
グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」であった。

龍馬は、東洋最大手のイギリス武器商会の「営業マン」であり、
諸藩は、龍馬を通して、最新の武器を買うことができた。
そのおかげで龍馬は、権力者たちと、幅広く交流する事ができたのだろう。

型やぶり夫婦――龍馬とお龍(おりょう)

【武勇伝】
後に坂本龍馬の妻となる「お龍(おりょう)」が18才の頃、
お龍の2人の妹たちが、だまされて、大阪の遊女として売られる事件が起こった。
その事を知ったお龍は、自分の着物を全て売って、大阪までの旅費を作り、
短刀を持って、1人で女部屋に乗り込んだ。
相手に「殺す」と脅されたが、
お龍は「殺せ!殺されに大阪まで来た!」と言って引かず、
相手が根負けした事によって、妹たちを無事、救い出したという。
龍馬は、この武勇伝を、家族宛ての手紙に書き送り、
お龍のことを「まことに面白き女」と評している。

お龍は「茶道」「華道」「香道」などの心得はあったが、
家事は苦手で、遊芸は大好き、政治にも口を出したがるような女性だったようである。

【寺田屋事件】
龍馬がいる寺田屋に、奉行所の役人がやってきた時、
入浴中だったお龍(おりょう)が真っ先に気づき、2階に駆け上がり、龍馬に危険を知らせた。
龍馬は、大勢の捕り手に対して、拳銃で応戦・逃走したが、手に重症を負ってしまう。

この寺田屋事件の後、龍馬とお龍は結婚したが、
2人が夫婦として過ごした時間は、わずか「1年10ヶ月」程度でしか無かった。

龍馬とお龍は夜、鴨川べりをデートしたと言われているが、
当時、男女が寄りそって一緒に歩くことは、珍しい事であった。

【日本初の新婚旅行】
寺田屋事件の後、結婚した龍馬とお龍(おりょう)の2人は、
寺田屋で負った龍馬の傷の治療を兼ねて、温泉旅行をした。
これが「日本最初の新婚旅行」と言われている。

【龍馬の死後】
お龍(おりょう)は、龍馬が暗殺された後、龍馬の未亡人として土佐の坂本家に入ったが、
義兄夫婦と反りが合わなかったため、わずか3ヵ月ほどで土佐を出てしまう。
その後、京都、東京、神奈川と、縁者を頼って転々とし、
酒に酔うと「私は坂本龍馬の妻だった」と言うのが口癖で、
アルコール依存症になっていたという。

薩長同盟

龍馬を解く(高知新聞)
(ttp://www.kochinews.co.jp/ryoma/ryoma003.htm)
当時、「長州藩」と「薩摩藩」は仲が悪く、
「同盟」を結ぶ最後の段階になってもなお、
両藩の意地から「同盟を結んでくれ」とは、どちらからも言い出せない状態が続いていた。

桂小五郎(長州藩)と西郷隆盛(薩摩藩)の間で、話し合いが行なわれたが、
「同盟」に関する具体的な話が、出なかったので、
怒った桂小五郎(後の木戸孝允)は、帰ろうとしていた。
そんな桂小五郎のことを、坂本龍馬は非難したが、桂小五郎は、こう言い返してきた。

「薩摩は、公然と『朝廷』『幕府』『諸侯』と交えるが、長州は違う。
『全てが敵』という状況で、こちら側から薩摩に、行動を共にすることを求めれば、
それは助けを求める事と同じだ。
それは長州の本意ではなく、恥じるところであるから出来ない。
たとえこのままで幕府と戦い、長州が焼け野原になっても、
薩摩があとに残って、皇国のために尽くしてくれるならば、われらも本望だ。
明日は、帰国する事を決意している」

それを聞いた龍馬は、桂小五郎を非難するのを止めて、その場を離れた。
その後、具体的にどんなやり取りがあったのかについては、記録に残されていない。

だが龍馬が、西郷隆盛や小松帯刀と話し合った結果、帰国しようとしていた桂小五郎を引き止めて、
再度「長州藩」と「薩摩藩」の会談が行なわれた、というのが定説である。
この会談には龍馬も立ち会い、六ヶ条の盟約が交わされた。
これが「薩長同盟」である。

この六ヶ条の盟約は、会談の場では、明文化されなかったため、
桂小五郎が龍馬に「この内容で、間違いないか」と書状を書き送った。
この書状のおかげで、「薩長同盟」の具体的な内容が、後世に伝えられる事となった。
この「桂の書状」が無かったならば、「薩長同盟」の具体的な内容は、
おそらく「歴史のナゾ」となっていただろう。

龍馬は、この「桂の書状」に、「相違なし」と朱筆した。
一介の浪士に過ぎない「坂本龍馬」という1人の男が、
国家の歴史を動かす場に立ち会い、その証人となったのだった。

「船中八策」「大政奉還」

坂本龍馬(Yahoo!百科事典)
(ttp://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC/)
坂本龍馬は、後藤象二郎とともに、夕顔丸(土佐藩船)で長崎を出航、京都へ向かった。
その船中で龍馬は、山内容堂(前土佐藩主)に対して「大政奉還論」を進言するため、
「大政奉還」「公議政治」などの新国家構想を「船中八策」として、まとめた。

後藤象二郎は、龍馬の「船中八策」に賛同し、「船中八策」を京都で土佐藩主に提出。
そして「大政奉還」を、土佐藩の藩論とすることに成功した。

山内容堂(前土佐藩主)は、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に「大政奉還」を建白、
これを受け入れた徳川慶喜は1867年10月、40藩の重臣を招集し、
「大政奉還」を諮問、「大政奉還上表」を朝廷に提出し、10月15日「大政奉還」は実現した。

近江屋事件(龍馬暗殺)

龍馬暗殺諸説(高知新聞)
(ttp://www.kochinews.co.jp/ryoma/ryoma006.htm)
龍馬を解く(高知新聞)
(ttp://www.kochinews.co.jp/ryoma/ryoma003.htm)
1867年11月15日、奇しくも33才の誕生日に、坂本龍馬は暗殺された。
午後9時過ぎ頃、風邪気味だった龍馬は、
京都の近江屋の2階の一室で、盟友の中岡慎太郎と話していた。

そこへ突然、数人の刺客が押し入り、龍馬と中岡の2人は、頭を斬りつけられた。
龍馬は床の間に置いてあった刀を取ったが遅く、さらに二の太刀、三の太刀を受けてしまう。

龍馬は、額を切られ、脳液が吹き出すほどの重症だった。
刺客が立ち去った後、龍馬は正気にかえったが、
「オレは脳をやられた。もういかん!」と叫んで、息絶えたという。

龍馬暗殺犯は、見廻組(みまわりぐみ、幕府の警備隊)の
佐々木只三郎・以下7人であった事が、定説となっているが、
さまざまな犯人説が錯綜しており、真犯人は現在になってもなお、特定できていない。

竜馬暗殺の犯人については、
「見廻組説」「新選組説」「紀州藩説」「薩摩藩説」「陸援隊説」「後藤象次郎・黒幕説」
「中村半次郎・下手人説」「伊東甲子太郎・下手人説」などがある。

「亀山社中」「海援隊」

海援隊のあらまし(坂本龍馬と海援隊)
(ttp://homepage3.nifty.com/kaientaidesu/html/link1.htm)
海援隊の専門サイト。

【海援隊[その1]】
海援隊は「政治結社」でもあり「商社」でもあった。
海援隊は近代的な知識集団であり当時、最も進んだ科学技術を集大成した西洋製の鋼鉄船を、
運航する技術・能力を備えていた。
海援隊士は「航海術」「運用術」「機関術」「算術」「気象学」「天文学」などを修得していた。
中には「英語」や「オランダ語」を得意とする者もいた。

海援隊士には「脱藩者」「庄屋」「町民」など、様々な階層の出身者がいて、
隊内には自由な雰囲気があった。

また海援隊は「亀山社中」時代から、「土佐藩」以外の出身者も、分けへだてなく迎え入れ、
同等の扱いをしている。
「海援隊約規」は、「本藩(土佐)を脱する者、他藩を脱する者、海外に志しある者」を
隊員とすることを明文化しており、これは幕藩体制下の当時としては考えられない「自由な発想」であった。

【海援隊[その2]】
「海援隊」は「亀山社中」時代を含めても、活動期間は1865年5月から1868年4月までの、
わずか3年程度でしか無かった。
亀山社中は1865年5月に、坂本竜馬が中心となって組織した、
私設の「海軍」「商社」的性格を持った浪士結社だった。
そして1867年4月、亀山社中は、土佐藩の支配下に入り「海援隊」として改編された。

伝記(総合2)

坂本龍馬の生家は、身分は低かったが、裕福であった。
土佐藩の身分は、「上士」と「下士」に分かれていた。
さらに「下士」の中も細かく分かれており、
龍馬は「下士」の中の「郷士」という身分だった。

「上士」の方が「下士」よりも高い身分ではあったが、裕福とは限らなかった。
「上士」には「半地借り上げ」という納税義務があった。
例えば、100石の石高であった場合、半地が土佐藩に借り上げられ、
残りの50石で生活しなければならなかった。

これに対して、身分が低い「郷士」には、「半地借り上げ」の納税義務がなかった。
坂本家は、170石あったので、裕福な生活をしていたと思われる。

しかし龍馬の身分である「郷士」と、身分の高い「上士」の間には、
徹底した身分差別があった。
たとえば「郷士」が、道などで「上士」とすれ違う時、
「郷士」は、おじぎをしなければならなかった。
また重老以上に出会った時には、「郷士」は、ひざまずいて頭を下げなくてはならなかった。
また「郷士」が、政治の世界に関わる事は無かった。

1863年4月、勝海舟が「海軍操練所(幕府の海軍教習所)」の設立の認可を、
幕府から取りつけると、勝海舟の弟子だった坂本龍馬は、設立所準備のために奔走した。
そして翌年の1864年、「神戸海軍操練所」が正式に開設された。

しかし「池田屋事件」「禁門の変」において、多数の海軍操練所の塾生が参加していたため、
海軍操練所は幕府から弾圧され、
勝海舟も解任され、龍馬は勝海舟の庇護を失ってしまう。

龍馬が12才の時、母・幸が亡くなったが、
その後、龍馬を育てたのは、4つ年上の姉・乙女であった。

姉・乙女は、身長は175cm、体重は100キロを超えていたといわれ、
「坂本家の仁王様」と呼ばれていた。
彼女は「剣術」「弓術」「馬術」「水練」のほか、
「琴」「三味線」「浄瑠璃」「和歌」「詩吟」など、
文芸もこなす「文武両道の女性」であったという。

姉・乙女は、龍馬を小栗流日根野道場に入門させたり、
無理やり川に投げ落としてまで泳ぎを教えたりして、
幼い頃、泣き虫だった龍馬を、徹底的に鍛え上げた。

坂本龍馬は明治維新の後、しばらく注目される事がなかったが、
1883年に坂崎紫瀾が書いた伝記的小説「汗血千里駒」が、大評判となった事で、
一躍その名が知られるようになった。

その後、日露戦争の時、再び龍馬ブームが起きた。
1904年、明治天皇の皇后・美子(はるこ)の夢枕に、坂本龍馬が立ち、
「私が海軍軍人を守護いたします」と語ったとされる新聞記事が、世間をにぎわせた。

そして「現代的・龍馬像」を作り上げたのは、なんといっても司馬遼太郎である。
司馬遼太郎の長編小説「竜馬がゆく」は、一大龍馬ブームを巻き起こした。
「行動力」「情報収集力」「人脈形成術」「自由闊達(かったつ)さ」「進取の姿勢」
「身分ではなく志の重視」「絶妙な危機管理」など、司馬遼太郎が生み出した「新しい龍馬像」は、
「政治家」「経営者」などのリーダーシップの理想像とされ、
「歴史雑誌」だけでなく「経済誌」などにも、たびたび取り上げられるようになった。

坂本龍馬たちが大洲藩から借りた「いろは丸」という船が、
瀬戸内海を航行中に、大型の蒸気船と衝突した。
衝突した相手は、紀州藩(徳川御三家)所有の「明光丸」であった。
龍馬をはじめ「いろは丸」の乗組員35人は全員、「明光丸」に乗り移って、
命に別状は無かったが、龍馬の「いろは丸」は沈没してしまう。

龍馬は「明光丸」の船長に対して、賠償金として1万両を要求したが、紀州側はこれを拒否した。
そして長崎奉行所で話し合う事となり、紀州側との談判が始まったが、
談判では、お互いに主張が食い違って、らちがあかなかった。

そこで龍馬は、後藤象二郎に支援を要請、後藤も談判の場に出席する事となった。
龍馬と後藤は、「明光丸」の甲板上に、当直士官がいなかった事と、
2度衝突したことを理由に、押しまくった。

土佐藩を背景にした龍馬と後藤の強談判にひるんだ紀州側は、過失を認めて、
8万4千両の賠償金の支払いを約束した。
後に7万両に減額されはしたものの、龍馬と後藤の勝利に違いは無かった。

江戸へ剣術修行に出た坂本竜馬は、北辰一刀流・千葉定吉に入門した。
そこで「北辰一刀流長刀兵法目録」が竜馬に与えられたが、これは剣術の方ではなく、
薙刀(ナギナタ)のものだという事が、近年の研究によって分かっている。
しかし竜馬は、江戸の3大道場の1つである「千葉道場(桶町)」の塾頭をしていたため、
それなりの腕であったと思われる

「坂本龍馬の手紙」などの資料集。



「DVD」「Blu-ray」「CD」など

好きな事やらずに、なにが青春じゃ!

黒船が欲しい――世界を自由に駆けめぐる「黒船」に魅了された竜馬たちは、
「商人志士」とバカにされながらも、ついに1隻の蒸気船を手に入れる。
その頃、長州征伐に向かう15万もの幕府軍が、長州へ迫っていた――
竜馬は、高杉晋作率いる「奇兵隊」と、たった1隻のボロ船「ユニオン号」とともに、
巨大戦艦を持つ幕府軍に立ち向かう!

坂本竜馬の青春を、「武田鉄矢」自らが「脚本」「主演」で描き出す。

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放映時に総集編となっていた第35話から第39話も、
個別エピソードとして収録した「完全版」。
全39話を収録。

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貴重なインタビュー映像は、DVD-BOXだけの完全新録!

「竜馬・人物相関図」「登場人物・偉人伝」ほか、「初出しの資料」が盛りだくさんの、
豪華36ページブックレット「お~い!竜馬伝」封入!

【少年編】
少年時代の竜馬は、泣き虫で、いじめられっ子だった。
しかし家族の暖かい愛に包まれた竜馬は、いつも夢を持って生きていく。

【青春編】
青年になった竜馬は、日本一の剣士をめざして、江戸の「千葉道場」に入門、
めきめきと腕をあげていく。
そんな時、黒船の到来という、大事件が起こる。
竜馬、波乱万丈の青春がはじまる――

【雄飛編】
日本は、激動の時代を迎えていた。
尊皇攘夷の志士たちが、新しい世を作るため、日本中を奔走する。
維新の英雄「坂本竜馬」が、いよいよ始動する――

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「龍馬暗殺関連」「土佐勤王党関連」など。

「龍馬伝 NHK大河ドラマ(完全版)」season1
「福山雅治」主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」のBOX第1弾。

坂本龍馬の生涯を、岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)の視点から描いた「青春群像劇」。
黒船目撃、脱藩、海軍操練所の建設、薩長同盟――
いつも自分の1歩先をいく龍馬への憧れ・ねたみは、弥太郎をさいなむ。
長崎で再会した2人は、衝突を繰り返しながらも急接近。
「世界の海援隊を作る」という龍馬の志は、龍馬暗殺の後、弥太郎に引き継がれていく。

龍馬をめぐる4人のヒロインたち
「幼なじみの加尾」「江戸の鬼小町・佐那」「長崎の芸妓・お元」「妻・お龍」。
そして「新撰組」「西郷隆盛」「桂小五郎」「高杉晋作」「イギリス商人・グラバー」など、
幕末のオールスターたちが、新しい龍馬伝説を彩る。

【収録内容】
「上士」と「下士」の厳しい階級制度がある土佐藩で、生まれ育った9才の坂本龍馬は、
ふとしたことから、上士の少年を怒らせてしまう。
第1話「上士と下士」から、第13話「さらば土佐よ」までを収録。

「龍馬伝 NHK大河ドラマ(完全版)」season2
NHK大河ドラマ「龍馬伝」のBOX第2弾。
【収録内容】
後藤象二郎から、龍馬の捕縛を命じられた弥太郎は、井上佐市郎と一緒に、大坂へ向かう。
そんな2人の前に、ふらりと龍馬が現れ・・・・・・
第14話「お尋ね者・龍馬」から、第28話「武市の夢」までを収録。

「龍馬伝 NHK大河ドラマ(完全版)」season3
NHK大河ドラマ「龍馬伝」のBOX第3弾。
【収録内容】
薩摩藩に身を預ける事になった龍馬たちは、薩摩へ向かう途中で立ち寄った長崎で、
藩の世話にならずに生きていく道を探し始める。
第29話「新天地・長崎」から、第38話「霧島の誓い」までを収録。

「龍馬伝 NHK大河ドラマ(完全版)」FINAL SEASON
NHK大河ドラマ「龍馬伝」のBOX第4弾。
【収録内容】
長州軍と合流した龍馬たちは、夜半の奇襲作戦を行ない、
高杉と奇兵隊は、幕府軍に大勝利する。
第39話「馬関の奇跡」から、最終話「龍の魂」までを収録。

「龍馬伝 NHK大河ドラマ」総集編
「福山雅治」主演のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の総集編BOX。
視聴者から募集した「人気が高かった名シーン」を中心に、「龍馬伝」を振り返る。

さらに後藤象二郎を演じた青木崇高さんが高知を、
岩崎弥太郎を演じた香川照之さんが長崎を訪れ、龍馬ゆかりの地を巡りながらナビゲート。

さらに、福山雅治さんのクランクアップ(撮影終了)の際の「秘蔵映像」なども初公開!
3枚組(本編+特典1枚)。

「龍馬伝 NHK大河ドラマ」オリジナル・サウンドトラック
NHK大河ドラマ「龍馬伝」のオリジナル・サウンドトラック。

TBS制作の「竜馬がゆく」がDVD化。
原作は「司馬遼太郎」。

「上川隆也」「沢口靖子」「鶴田真由」「松たか子」「長瀬智也」ほか、豪華キャストが出演。
竜馬が暗殺されるまでの33年間の短い人生を、「青春」「恋」「友情」などを交えて描く。

市川染五郎(七代目) が主演。
原作は、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」。

土佐の下級武士に生まれながら、「飛びぬけた行動力」と「人間的魅力」で維新の主役となり、
「薩長連合」を成しとげた「坂本竜馬」の偉大な功績、苦悩に満ちた波瀾万丈の生涯を描く。
「市川染五郎」「内山理名」ほか出演。

幕末の英雄「坂本龍馬」に出会う旅へ!
龍馬の生涯を振り返りながら、「龍馬ゆかりの地」と「歴史」をたどるNHKの人気番組を、
全放送分おさめたDVD-BOX。

古地図を片手に、龍馬ゆかりの各地を歩き、
「龍馬の生涯」と「幕末維新という時代の本質」を見つめ、
新しい歴史を、ひも解いていきます。

【収録内容】
Disc1「龍馬は一日にして成らず」
[高知:生誕、脱藩][東京:黒船遭遇]

Disc2「『武士の壁』を乗り越えた男」
[神戸:海軍創設][長崎:商社起業、イギリス商人との出会い]

Disc3「激動の時代を生きた坂本龍馬」
[京都:薩長同盟、政権交代、非業の死]

「龍馬暗殺をめぐる長年の論争」に、ついに終止符が打たれた!
龍馬暗殺といえば、これまで「新撰組」「紀州藩」「薩摩藩」など、
さまざまな黒幕説が存在してきた。
だが、どの説も定説とはならなかった。

本書「龍馬史」は、それらの説を次々と論破しつつ、
「もはや覆しようもない、1つの解答」を導き出した。

龍馬暗殺の「最終解答」にたどり着いたのは、ベストセラー「武士の家計簿」などの著作で知られ、
「平成の司馬遼太郎」との呼び声も高い「磯田道史」氏。

机上の史料分析だけにとどまらず、「暗殺犯の逃走ルート」を検証するなど、
フィールドワークを積み重ねることで、より立体的に暗殺事件を再現。
その結果、これまで全く取り上げられなかった視点が生まれた。
「新事実」と「緻密な推理」で暴く「龍馬暗殺」の全貌。
【著者】 磯田道史
【出版社】文藝春秋

いわずとしれた司馬遼太郎の超有名歴史小説「竜馬がゆく」。
全8巻セット。

「『薩長連合』『大政奉還』、あれァ、ぜんぶ竜馬1人がやった事さ」と、勝海舟は言った。
坂本竜馬は「幕末維新史上の奇蹟」といわれている。
彼は土佐の郷士の次男坊、そして浪人にすぎなかった。
にもかかわらず大動乱期に、卓抜した仕事を成し遂げた。
竜馬の劇的な生涯を中心に、同じ時代をひたむきに生きた若者たちを描く長篇小説。
【著者】 司馬遼太郎
【出版社】文芸春秋

「お~い! 竜馬(武田鉄矢+小山ゆう)」を、全14巻で刊行。
【著者】 小山ゆう、武田鉄矢
【出版社】小学館

坂本龍馬の妻「おりょう」が後年「反魂香」などに残した聞書きから、素顔の龍馬を描く。
寺田屋での出会い、襲撃の場面から、船での薩摩旅行、その死まで。
西郷隆盛ら同時代人評も。
史料全文を、読みやすい「現代かな遣い」で収録。

本書で、おりょうが語る坂本龍馬からは、古き時代の不良のニオイがプンプンする。
仲間と変装して妓楼に繰り出し、「新選組」「奉行所」から追い回され、
船の上で射撃の腕を競い、霧島では天の逆鉾を引き抜く。

龍馬の妻「おりょう」が語る「反魂香」は、生き生きとしていて、
現代女性にも通じる視線が、新鮮である。
【著者】 一坂太郎
【出版社】朝日新聞出版

「アメリカ独立戦争(1775年)」「フランス革命(1789年)」
世界の二大革命の指導者層には、圧倒的多数のフリーメーソン・メンバーがいた。
さらに同時代に活躍した「ゲーテ」「ハイドン」「モーツァルト」いずれもメンバーである。
「世界最大の秘密結社」と呼ばれるフリーメーソンは、
「自由」「平等」「博愛」の基本理念を掲げ、「革命」を推進した。
そして彼らは、明治革命をむかえつつある幕末の日本に、たどり着いた――

龍馬をあやつった「陰の力」とは?
「亀山社中」は、武器輸入のダミー会社だった?
なぜ下級武士の龍馬が「薩長同盟」を仲介できたのか?
なぜ彼は暗殺されたのか?
龍馬が「最後の手紙」に込めた暗号、そして「龍馬暗殺」の真犯人とは?
【著者】 加治将一
【出版社】祥伝社

「日本を今一度 洗濯いたし申し候」という有名な一節をはじめ、
「龍馬が残した言葉」を集めた本。

龍馬が、姉・乙女ほか家族、桂小五郎、陸奥宗光ほか同志にあてた手紙、
また「妻・お龍」「勝海舟」「岩崎弥太郎」らの回想録から、
龍馬の肉声がよみがえる。
本書は龍馬の言葉から、その「人間的魅力」「世界観」「変革の発想法」などを
浮かび上がらせる1冊である。

「世の中の人は何とも言わば言え
我なすことは我のみぞ知る(和歌)」

「『いつ死んでもよい』という気にならねばならぬ(部下への言葉)」

「これより天下の事を知るには、会計もっとも大事なり(知人への言葉)」ほか。

【著者】 坂本優二
【出版社】ディスカヴァ-・トゥエンティワン

坂本龍馬は、さまざまな形で、後世に伝えられている。
「海軍の先駆者」として、あるいは「デモクラシーの象徴」として――
だがそれらは、はたして龍馬の実像なのだろうか。
「御国と皇国」「徳川家と天朝」など、新旧の価値が交錯する時代の精神を読み解き、
「龍馬の真実」に迫る。
【著者】 飛鳥井雅道
【出版社】講談社

「龍馬に関する定本」を目指した決定版。
当代人気の執筆陣22名と、全国の龍馬会会員によって制作されました。
370枚に及ぶ「古写真」「図版」「地図」は、ビジュアルも資料性も充分。
初心者から研究者まで、「全ての龍馬ファン」に贈ります。
【著者】 小椋克己
【出版社】戎光祥出版

坂本龍馬の「計139通」の手紙を網羅した本。
「壮大な国家構想」から「姉や姪あての心暖まる私信」まで、時には茶目気を見せ、
時には「苦悩」「喜び」などの真情も吐露する、坂本龍馬の手紙の数々。
【著者】 宮地佐一郎
【出版社】講談社

「竜馬がゆく」に欠落しているものは何か。
「誤伝累積の虚像」を粉砕し、正確な史料を、縦横に駆使した「実像」を提示する。
「司馬遼太郎」「津本陽」など文学作品における御都合主義を鋭くあばき、
龍馬・海舟間の真相に、初めて切りこむ。
【著者】 松浦玲
【出版社】論創社
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