オットー・フォン・ビスマルク

伝記

美食家だったビスマルクは、朝食には卵16個を、
昼食にはキャビアと燻製うなぎを、
夕食には生牡蠣を175個も食べた。
その結果64才の時、ビスマルクの体重は124キロを超えた。

学生ビスマルクは、ゲッティンゲン大学にいた1年半の間に、25回もの決闘をやり、
酒瓶を窓から投げ捨てていた。
ビスマルクの決闘遍歴は、その後も続いた。
ドイツ連邦議会のプロイセン代表となったビスマルクは、仲の悪いフィンケ代議士とピストルで決闘したが、
幸い両者とも、相手に弾を当てる事はなかった。

ドイツ帝国憲法には、重大な欠陥があった。
条文中の「皇帝は」という部分は全て、
「皇帝及びビスマルクは」と解釈することで、初めて機能することができた。
ところが新皇帝ヴィルヘルム2世は、ビスマルクを解任してしまう。
これによりヴィルヘルム2世の行動を妨げる者は、誰もいなくなった。
その後ドイツ帝国は、イギリスを敵に回しての”破滅の道”を突き進んでいく事となる。

普仏戦争で、プロイセンに負けたフランスは、
アルザス・ロレーヌ両州を、ドイツ(プロイセン)に奪われ、巨額な賠償金(50億フラン)を課せられた。
この苛酷な条約は、フランス国民にドイツへの強い復讐心を抱かせた。
フランスの復讐を未然に防ぐため、ビスマルクはフランスを孤立化させることに意を用いた。
フランスと手を結ぶ可能性のある国々を、ドイツの側に引き入れようとし、
特にロシアがフランスと同盟を結べば、ドイツは東西から、はさみ撃ちにされるので、
ロシアとの提携強化に努めた。

オーストリア人はドイツ民族で、言語もドイツ語だが、
プロイセンとの戦争(普墺戦争)で負けたため、オーストリアはドイツ帝国から追い出されてしまう。
しかし、もし普墺戦争でオーストリアが勝っていたならば、
ドイツの首都はベルリンではなく、ウィーンになっていたかもしれないし、
またドイツとは別に、プロイセンという国が、現在あったかもしれない。

ビスマルクは決してギャンブラーではなく、”武力行使の危険性”について、常に徹底した自覚をもっていた。
だから軍事面、経済面など、全ての面で有利を得られるまで、戦争に訴える事はしなかった。

沼にハマって溺れている友人から、助けを求められたビスマルクは、
その友人に銃を向け、こう言い放った。
「その沼は底なし沼なので、助けようとすれば、二人とも溺れ死んでしまう。
せめてもの友情で、苦しまないよう、一発で殺してやる。」
驚いた友人は、懸命に泳ぎ、自力で沼から這い上がってきたという。

JTウェブサイト
(ttp://www.jti.co.jp/sstyle/trivia/know/story/world1/10.html)
大の愛煙家だったビスマルクが、”あえて吸わなかった1本のタバコ”にまつわる感動エピソード。
一見コワモテのビスマルクが見せた優しさとは・・・・・・

ビスマルク(Yahoo!百科事典)
(ttp://100.yahoo.co.jp/detail/ビスマルク)
ドイツ帝国は”強力な王権”と”弱体の帝国議会”が共存しており、
全制度の中心にいたビスマルクは、全権力を手にした独裁者であった。

ビスマルク(地球旅行研究所)
(ttp://www.tabiken.com/history/doc/P/P122C100.HTM)
普仏戦争でフランスを破り、ドイツ統一を成し遂げたビスマルクは、
フランスの復讐に備え、同盟・親善網を完備した。
同盟網の中心となるのは「独墺同盟」「三帝同盟」「三国同盟」「再保障条約」であり、
ロシアを引きつけ、フランスを孤立させる狙いがあった。
ビスマルク外交の本質は、全ての国と決定的な対立をもたず、
また、全ての国と運命をともにするほどの親善さもないもので、
小緊張を利用して大きな対立を避け、ドイツ帝国を育成することにあった。

The Purple Chamber
(ttp://homepage3.nifty.com/ryuota/20c/ww1.html)
ウィーン会議(1815年)以来、ヨーロッパを主導したのは、
イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロイセンの5大国だったが、
その中でもプロイセンは、最も弱小であった。
しかしそのプロイセンが、2つの戦争(普墺戦争と普仏戦争)で、オーストリアとフランスに勝利し、
ドイツ帝国を建設したことは、全ヨーロッパに衝撃を与えた。
しかも統一ドイツは、人口と地上兵力では、ロシアに次ぐ第2位となり、
工業生産でも、やがてフランスを抜き、首位のイギリスに迫ると見られていた。

茂木の世界史
(ttp://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/lecture/bismark_age.htm)
数百年間、分裂していたドイツを統一したビスマルクだが、
そうたやすくドイツが、真の意味で一つになるはずもなかった。
”南ドイツのカトリック教徒”は、プロイセン(プロテスタント)の支配を嫌っていた。
そこでビスマルクは、カトリック教会に対する「文化闘争」を宣言、
公立学校の教師から聖職者を追放、聖職者の政府批判を禁じ、反政府運動をした4000人の聖職者を投獄した。

ビスマルクの名言

「私の立場にあっては、我意を通すことは、場合によっては、まさに犯罪行為である。
責任のない立場にあれば、そんなぜいたくも許されようが」他。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」他。

21世紀に残したい世界の名言・格言集
(ttp://www.tt.em-net.ne.jp/~katsumi007/jinnmei/jinmei2702.html)
「青年にすすめたい事は、ただ三語につきる。
すなわち『働け』『もっと働け』『あくまで働け』」

「”的確な弾丸”よりも”鋭い弁舌”の方が強い」他。

哲学之道
(ttp://www.nurs.or.jp/~academy/meigen/ijin107.htm)
「歴史が証明する所によると、逃した機会は、二度と戻らない」他。
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